前田玄以(小田原)
の履歴(No.1)
[
トップ
] [
一覧
|
検索
|
最終更新
|
バックアップ
|
ヘルプ
]
検索
履歴一覧
差分
を表示
現在との差分
を表示
ソース
を表示
前田玄以(小田原)
へ行く。
1 (2026-04-01 (水) 06:24:27)
【
独眼竜の野望
】
前田玄以
(
まえだ げんい
)
†
↑
レベル:数
†
69:5
↑
家紋
†
豊臣
↑
生息地域
†
小田原の陣
↑
戦闘開始時セリフ
†
念仏を唱えるなら、 待っていてやろう。
↑
構成
†
名前
職業
レベル
初期付与
使用技
前田玄以
錫杖僧
69
▲
結界
妖周天
法印の業火
、
僧兵連撃・改
、
焦熱呪
、
鉢特摩呪
、
沈黙の霧・壱
織田秀信
槍侍
64
魔王の血統
、
一所懸命・極
、
八箇必勝
、
全体看破
、守護術
堀尾金助
刀忍者
64
▲
五連撃
、
無影一閃
、
結界破り
、
霧散霧消
延暦寺高僧
錫杖僧
64
▲
僧兵連撃・改
、
諸法無我
、
完全回復
、
全体完全回復
織田信雄
弓侍
69
▲
▲
▲
魔王の血統
、
点破
〜
弐
、
一所懸命・極
、守護術
↑
特徴
†
法印の業火
魔王の血統
↑
ドロップアイテム
†
玄以討取の証
↑
備考
†
法印の業火は連発してくることもある。
5の行動はほぼ点破のみ
↑
列伝
†
前田玄以
前田玄以
参照。通称「民部卿法印」
織田秀信(おだ ひでのぶ)
1580-1605 織田信忠の嫡男。魔王こと
織田信長
の嫡孫。幼名
三法師
。
1582年の本能寺の変の際は、父信忠の居城岐阜城に在城していたが、
前田玄以
に保護されて清洲城へと避難した。清洲会議において
羽柴秀吉
の周旋により、家督を相続。
小田原の陣
では六番隊として参陣し、
堀秀政
の指揮下で戦った。1592年には
美濃
国岐阜13万石を与えられる。
関ヶ原の戦い
では西軍に加勢。東軍
池田輝政
・
福島正則
らと戦った。
戦後は福島正則の助命嘆願もあり、高野山へと送られた。しかし信長の行った高野山攻めが仇となって当初は入山が許されず、出家が許された後も迫害を受け、1605年には高野山から追放される。以後世に出ることなく生涯を閉じた。享年26。
堀尾金助(ほりお きんすけ)
1573-1590 堀尾吉晴の長男。
小田原の陣
に父と共に参戦したが、陣中で死去。
織田信雄(おだ のぶかつ)
1558-1630 信長の次男。幼名茶筅丸。1569年、
北畠具房
の養嗣子となり
北畠具教
の娘を娶った。1575年には北畠家を相続する。
1579年、無断で
伊賀
侵攻を行うも大敗。信長に叱られる。1581年、再度伊賀へ侵攻し、同国を平定する(「天正伊賀の乱」)。
本能寺の変に際しては、
近江
まで進軍するも、
伊勢
へ撤退したという。戦後の清洲会議では、
織田家
の後継者にはなれなかったものの尾張・伊賀・南伊勢100万石を領した。
賤ヶ岳合戦では秀吉方に属し、岐阜城を攻め弟・
信孝
を自害させる。戦後は織田秀信の後見として台頭したが、秀吉との関係は悪化し、
徳川家康
と同盟関係を結ぶ。
小牧
・長久手の戦いでは家康に無断で単独講和を結び、以後は秀吉に臣従。九州の役や
小田原の陣
に従軍する。しかし、小田原の役の戦後の論功行賞で移封命令を拒否した結果、秀吉の怒りを買い改易。下野烏山、出羽秋田、伊予へと流される。
文禄の役の際に家康の仲介で赦免され、相伴衆に加えられて
大和
国に1万8000石を領した。
関ヶ原の戦いでは、
大坂
にあって傍観的態度に終始している。しかし、西軍に与したと判断されたためか、改易されている。戦後は豊臣家に出仕したが、大坂冬の陣の直前に徳川方へ転身する。
1615年、家康から大和国宇陀郡、
上野
国甘楽郡などで5万石を与えられた。
ちなみに信長の七男信高の系統に養子として入った信雄の庶流の末裔がフィギュアスケート選手の織田信成である。
↑
コメント
†
法印の業火は準備なし全体約3000ダメージ術 -- 相模もん
2011-05-13 (金) 01:30:59
5が戦雲使ってきました --
2011-06-21 (火) 02:13:14
魔王…? --
2011-06-23 (木) 04:15:59
魔王の血統 使ったのは見ましたが効果忘れました --
2011-12-10 (土) 20:26:06
織田信雄が蘇生の秘薬を使用しました --
2012-10-23 (火) 12:58:06