越後武将一覧

甘粕景持(アマカス カゲモチ)

レベル:数

65:7

職業

戦闘開始時セリフ

○○○○よ。
お主は己に合う武器に
出会ったことがあるか?
○○○○よ。
真の武器に出会えたのか?
では相手をしようぞ!
久しぶりだな。○○○○
今日こそはお主を我が槍の
錆にしてくれる!
この槍に出会った日の喜び。
我が甘粕流槍術の真髄を
見せてくれよう!
人には己に合う武器がある。
それがしの場合はこの槍だ。
お主の得物を見せてみよ!

構成

ドロップアイテム

備考

争覇変更済み

列伝

甘粕景持
近江守。長重、景時。甘粕秦重の子か?生年は不明だがその後の形跡を考えるに1530年以前ではあると考えられる。

甘粕氏はいくつかの家系図がのこっている。清和源氏の新田氏を祖として越後国古志郡に土着したとする説、宇多源氏の佐々木氏から出でたとする説があるが定かではない。猟師であったという説もあるため、おそらく源氏云々はこじつけであると予想される。

甘粕氏が上杉家に仕えた時期は不明である。新田氏没落後越後によったとする説もあるが、景持が猟師をしていたのを謙信に見出されたという説もあるが、家系図とともにあいまいであり、不明とするしかない。
たしかな資料によれば彼は三条城将に抜擢されており、城主ではない。枡形城主であったという説があるが、記録としては残されていない。

1559年には長尾景虎の上洛祝いにて多くの家臣が太刀を送ったが、彼もその記録が残る。
上杉家家臣として各地を転戦する。
1560年には謙信の関東出兵に従軍、鶴岡八幡宮での関東管領就任式では、他の家臣とともに御先士大将を勤めている。
翌年の第4次川中島合戦では小荷駄奉行をつとめたほか、千曲川に陣取り、武田方の別働隊との激戦を繰り広げる。撤退時には殿を務め見事にこれを務め上げる。このことは甲陽軍鑑にも賛美がある。
第5次川中島合戦では武田本陣攻めに加わっている。

謙信没後の上杉家の内乱(御館の乱)では景勝を支持。またその後に起きた新発田重家の反乱の折に、三条城将に任命される(城将として記録が残っているのはこれ以降である)。この鎮圧の後も上杉家に仕えていた。
関ヶ原合戦での上杉家敗北後にも彼は上杉家に残り1602年に米沢において死去。

実は、彼は謙信時代の記録があいまいである。1575年に謙信が定めた「軍役帳」には彼の名は見られないという。また、その後の資料にも彼の名は記されず、改めて出現するのは景勝の代になってからである。
また、彼は上杉十八将と二十八将には名が連ねられるが、二十五将には記されず、代わりに遠い親戚であるとされる甘粕景継(今作品では徒党員として登場)が列せられている(一説には登坂清高の子で景持の跡目として謙信が抜擢した人物であるとするものがあるが、これはおかしい。景持の子孫はちゃんと会津藩士として存続している。彼が存続したのは継義の家であり、こちらの甘粕氏ではない)。

彼は最初長重と名乗っていた。おそらく謙信時代前半は一貫してこちらであろう。今作品でかつて徒党員2人目として登場していた甘粕長重は景持の旧名である。これは明らかなミスである。
また、槍、薙刀といった長柄を得意としていたのは徒党員2人目の甘粕景継(清長)である。景持が槍を得意としていたという特筆は特に見当たらない。

信長の野望には元来彼ではなく甘粕景継が登場していた。
また、多くのサイトで彼と甘粕景継の混同が見られる。
徒党員2人目といい、技能といい、信長の野望における歴史考証者は彼についてもう一度検証すべきであろう。
甘粕景継
同族ではないが、景持の遠戚とされる。上杉二十五将に数えられているが、晩年は景勝に冷遇されていたという。
その処遇にも関わらず徳川家康の勧誘は断っており、家康からは忠節ぶりに高い評価を受けている。
甘粕長重
 前述の通り、甘粕景持本人の旧名。争覇の章で越後僧兵と入れ替わった。

その他情報


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