[[足利家]]~
[[山城武将一覧]]
*&ruby(イケダ カツマサ){池田勝正}; [#q27eecb9]

**レベル:数 [#maccd190]
65:7

**職業 [#z375557d]
侍

**合戦配置陣 [#t2dca3af]
四天王

**タイプ [#tf281fcb]
勇将

**戦闘開始時セリフ [#hd115c69]
#ref(池田勝正台詞1.JPG)

-東西戦専用セリフ
#ref(池田勝正東西1.jpg)

**構成 [#mf11e880]
|>|>|CENTER:|||c
|~名前|~職業|~レベル|~初期状態|~使用技能|
|池田勝正|槍侍|65||[[名家の威風]]、[[追討一閃]]、守護術|
|水破の精鋭|忍者|60|||
|池田知正|棍棒僧|60|反射結界||
|足利上級陰陽|懐剣陰陽|60|結界||
|八坂巫女精鋭|懐剣巫女|60||[[詠唱の韻・極]]|
|鞍馬山伏|薙刀薬師|60|再生|[[蘇生・壱]]|
|京鍛冶衆|鉄砲鍛冶|60||守護術|

**特徴 [#u25e3789]
-[[名家の威風]]:強力な[[沈黙の霧]]。呪縛も上書きする。 
-[[追討一閃]]:強力な単体近接攻撃。挺身撃モーション。

**部隊アイテム [#wd75d399]
-[[当十槍]]

**ドロップアイテム [#e87de28b]
-[[当千十字槍]]
-[[筑後守の陣羽織]]
-[[天下無双旗印]]

**大決戦伝令 [#nfa2d31c]

**列伝 [#y284af02]
:池田勝正|
池田長正の嫡男とされる(養子説あり)。筑後守。生年は不明だが1530年ごろと考えられている。~
~
池田家は古くは景行天皇の後裔が池田村に在してから池田を名乗ったとされている。紀元が始まってからそう遠くない西暦3桁の時代である。~
ただし、景行天皇は在位140年間(紀元前13年〜紀元130年)の天皇であり、神話の世界の人物。実在は非常に疑問視されており、現在の学説では架空とされている。かのヤマトタケルの父親である。~
この天皇家説は信頼できず(紀元前の出などもともと信頼できるものではないが)、古代豪族であると考えられている。~
平安期に入るとこの地は摂関家の領地となるが、池田氏は[[美濃]]にうつり、この地の名前が池田となる。~
さらに源氏が台頭すると婚姻によりこの一門となり、源氏から養子をもらって跡目を継がせた。さらに室町初期には楠木正成の遺児が跡目を継いだために橘氏に入る。~
つまり、古代豪族(出自はもちろん不明。逆に出自の源流となる家である)から清和源氏、その後橘氏になったりなど、血縁がめまぐるしく変わる。しかし血脈はかなりはっきりしているほうで、大和政権初期より出る名家であると考えられる。~
なお、[[織田家]]にある[[池田恒興]]とはまた別の家系であると考えられている(根本が同じという可能性はある)。~
ちなみに、数度にわたり養子を取り血縁が入れ替わっているため、この勝正も養子ではないかという説がある。~
池田家は室町時代初期には一国人のままであったが、守護大名に匹敵するほどの経済基盤を発達させており、応仁の乱にも参加、その経済基盤を生かして激動の機内を生き延びて戦国に至る。名目上は細川家についていたが、実質的には独立勢力である。~
父の代に[[三好長慶]]が台頭、その後は[[三好家]]と動きを共にするとともに自らの家の拡大も行う。1562年には[[松永久秀]]とともに三好救出に赴いた記録がある。父長正の代である。なお、このときもあくまで三好家の家臣というよりは盟友的なものであったと推測される。~
~
翌年に父が没すると勝正は家督を継ぐ。~
1564年に長慶が没すると三好三人衆と松永勢との抗争が始まり、勝正は三人衆側につき松永勢と戦を開始する。~
しかし1568年、畿内に[[織田信長]]が上洛、状況は一変する。ほとんどの国人はあっという間に信長に降るが、勝正は居城である池田城に籠り、ある程度の抵抗を示す。しかし後に降伏し、所領を安堵されただけではなく加増され、[[和田惟政]]、[[伊丹親興]]とともに[[摂津>摂津和泉]]の守護を任される。その後は信長の下で各地を転戦する。~
~
しかし1570年、池田家で内紛が発生する。弟の池田知正が主導したとされているが、理由がいまひとつ不明の内紛である。このときの原因は三好三人衆の動向が影響したという説が強く、その後の動向からしてもこの理由は合点がいく。しかし、確定説ではないし、第一これまでの勝正の治世で問題点は浮かばない。しかしこの内乱には[[荒木村重]]、[[中川清秀]]といった池田家重臣も知正方についたとされており、かなりの家臣が弟についたようであるが…なぜこうなったかが不明である。この内紛により彼は追放、家督は一時期子である直正が継いだが、すぐに追放、弟の知正が継いだとされる。~
その後どういった経緯で逃げ延びたかは不明であるが、1571年、三好三人衆との戦いの折、信長勢として摂津に戻り原田城に入る。~
~
しかし1573年、信長は荒木村重に摂津守を送り摂津守護を任せる。このとき勝正は以前よりついていた信長側から離れて将軍家側について信長と敵対するが、荒木村重に攻められて居城は落城、高野山に追放され、1578年に没したといわれている。ただしこの最期に関しては諸説ある。~
ひとつは荒木との戦で討ち死に。~
もうひとつは[[細川藤孝]]、ついで有馬則頼に仕えたと言う説。~
さらには70年の内紛の際に村重に殺されたという説まである(これはその後の彼の足跡があるため信憑性は薄い)。~
さらに突拍した説としては伝を頼って逃げて[[九州>九州三国志]]にたどり着いたとまでいわれており、最期は定かではない。彼の場合は資料の散逸というよりも、資料を残すものがいなかったための混乱と考えられる。~
~
池田勝正の治世中、摂津は三好三人衆の畿内側における拠点でもあり、また勢力の興亡が激しい土地であった。~
そこを長らく収めることができた勝正の手腕はある程度評価できるが、内紛を起こしてしまった。原因が不明のため彼のせいかは不明だが、もしかしたら伝わっていない面で彼の治世に問題があったのかもしれない。~
ただ、彼の動向は最期を除いて織田家に追従しており、それを嫌った三好三人衆が仕掛けたものかもしれない。ただし、こうなると荒木も信長に近く、そうなれば三好方の弟につく理由がなくなるし、第一追放しなければならないほど勝正の治世がまずかったという資料はない。~
どちらにしても理由不明なのは確かで、新たな資料がでるのを待つしかないだろう。~

:池田知正|

**その他情報 [#z026da48]
- 元亀・天正の頃、池田知正は池田一族ではあるが、その頂点に立つ程の実力が無く、彼は若過ぎた。当主と並んで権勢があったのは、池田四人衆で、その筆頭が池田紀伊守入道清貧斎正秀であった。村重はこの正秀に推されて四人衆(三人衆:元亀元年6月以降に四人衆の内二名が死亡した後任として招かれたと思われる。三名記名の連署状が現存する。)に加わったが、めまぐるしく畿内政情が変化する中で、間もなくその連合も破談となり、主要な池田一族は幕府権威へ回帰し、村重など、比較的新しい池田家被官人達は織田信長方へ加担した。要するに池田一族とその血を引かない者の結束が途切れた。 -- [[池田勝正]] &new{2009-02-06 (金) 18:21:02};
- 部隊アイテム --  &new{2010-04-07 (水) 02:01:32};

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