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[[浅井家]]~
[[近江武将一覧]]
*&ruby(アザイ ナガマサ){浅井長政}; [#e91c7451]
#ref(浅井長政_全身_01.jpg,center)
**レベル:数 [#f276645c]
90:7
**合戦配置陣 [#l8183d88]
大名
**タイプ [#h2a023e7]
大将
**戦闘開始時セリフ [#i44c9878]
私には見えるのだ。
戦乱を治め、天下に号令する
私の姿が……邪魔をするな!
私には譲れぬものがある。
守らねばならぬものが……。
負けるわけにはいかぬのだ!
○○○○よ、
私もお主のように、政抜きで
合戦を楽しみたいものよ。
○○○○か。
私の首を持ち帰り、見事
手柄にしてみせよ。
**徒党構成 [#k28ceddc]
|>|>|CENTER:|||c
|~名前|~職業|~レベル|~初期状態|~主な使用技能|
|浅井長政|刀侍|70|&color(orange){▲};&color(blue){▲};|''[[夜叉一閃]]''、[[信義の魂]]、[[逆袈裟斬り]]、[[肋一寸]]、[[武運長久]]、[[活殺自在]]、[[大音声]]、[[全体看破・弐]]、[[蘇生・壱]]、一刀流、守護術|
|甲賀精鋭|懐剣二刀忍者|68||[[赤烏]]、[[瞬刃風車・改]]、[[瞬殺閃・弐]]、[[結界破り・荊]]、[[戦慄の黒荊]]、[[呪殺閃・弐]]、各種[[上遁術・参>嵐遁の術・参]]、[[全体看破・弐]]、[[蘇生・壱]]|
|福田寺住職|棍棒僧|68|反射結界|[[完全回復]]、[[全体完全回復]]、[[蘇生・壱]]、[[僧兵連撃・改]]、[[飛天発遣撃]]、[[閻魔撃・弐]]、[[焦熱呪・参]]、[[鉢特摩呪・参]]、[[羅刹浄天・改]]、[[八葉の蓮華]]、[[全体蓮華]]、[[金剛智拳印]]、[[罰当たり・四]]、[[因果応報]]|
|浅井井頼|錫杖陰陽|68|結界|[[柳宿砕破]]、[[焦炎・参]]等単体術、[[炎獄・参]]等全体術、[[猛焔・弐]]等全体術、[[術法剣・極]]、[[鬼道凶禍]]、[[六壬凶禍・弐]]、[[気合呪霧・壱]]、[[結界・四]]、[[星辰法]]、[[蘇生・壱]]|
|浅井亮親|懐剣神主|68|反射結界|[[詠唱の韻・極]]、[[神代の風・参]]、[[神代の雷・参]]、[[蘇生・壱]]|
|国友精兵|鉄砲鍛冶|68||[[小つるべ撃ち]]、[[二段砲撃]]、[[炸裂射撃・参]]、[[四段撃ち]]、[[陽動・改]]、[[警護一新]]、[[蘇生・壱]]、守護術|
|叡山大山伏|錫杖薬師|68|再生|[[完全治療]]、[[全体完全治療]]、[[蘇生・壱]]、[[難治撃・参]]、[[八苦撃]]、[[刹雷・弐]]、[[災禍の雷・参]]、[[凶風・伍]]、[[禍因の風・参]]、[[悪戦救護]]、[[歴戦の治癒]]、[[般若験力・弐]]、[[裏鬼門]]|
**特徴 [#e96402e9]
:[[夜叉一閃]]|非常に強力な[[乾坤一擲]]。後衛が喰らえば3万以上になる。
-5体の場合、盾が1の長政(侍)のみであるため、比較的難易度の低い大名。
**旧部隊アイテム [#k8ca1df6]
-[[相州貞宗]]
**ドロップアイテム [#m593e8bc]
-[[浅井一文字]]
-[[頭立兜]]
**大決戦伝令 [#u7859736]
#ref(浅井長政_大決戦_01.jpg)
**拠点戦台詞 [#k554c123]
***出撃時 [#ecc80df3]
#ref(浅井長政_拠点戦(出撃)_01.jpg)
~
#ref(浅井長政_拠点戦(出撃)_02.jpg)
***占拠時 [#h7a76fb9]
#ref(浅井長政_拠点戦(占拠)_01.jpg)
**列伝 [#s763d2ea]
近江の戦国大名。小谷城主。久政の子。
織田信長の妹・市を娶るが、朝倉家との友誼を重んじ信長と敵対。
居城を攻められ、市と娘たちを信長に託し自害した。
:浅井長政|
[[浅井家]]の発祥は、正親町三条内大臣実雅の男・公綱(あるいは政氏、氏政)が、嘉吉元年(1441)、罪を得て[[近江]]へ流され、浅井郡丁野(現・湖北町)に居住。公綱が許されて[[京>京都]]へ戻ったのちも、その子、新左衛門重政(公雅)が丁野に残り、地名、浅井を家号とし、守護職京極家に仕えた、とされる。~
~
京極氏は鎌倉以来の佐々木氏の分流であり、[[近江]]では名門であった。しかし[[浅井氏>浅井家]]は、数代を経るうち、永正13年(1516)、浅井亮政(長政の祖父)のころ、下剋上の中で台頭し、主家京極氏を圧迫して、[[北近江>近江]]の実権を握るに至った。亮政は[[小谷城>小谷]]を築いたが、その城山は、元々[[琵琶湖>近江]]北岸に展開する平にそびえていたため、城郭の規模はきわめて雄大、難攻不落の要塞となった。~
~
長政は天文14年(1545)、[[小谷城>小谷]]に生まれる。母は井口氏(阿古…[[井口経親]]の妹)、幼名は猿夜叉(さるやしゃ)、のち新九郎と称し、永禄2年(1559)、15歳で元服。備前守と改めた。弟に政元がいる。夜叉横断の由来はこの幼名からと思われる。
~
長政の父・[[久政>浅井久政]]は、長政に、六角氏の老臣、平井加賀守定武の娘を室に迎えるが、これによって[[六角氏>六角一族の屋敷]]の家来になったことを認めた体となり、長政をはじめ、家来達からは反発の声が強かった。[[六角氏>六角一族の屋敷]]もまた、京極氏とおなじ佐々木氏の分流であるが、[[久政>浅井久政]]はこれと戦い、終始押されぎみだった。~
~
永禄3年(1560)3月、長政16歳で初陣(野良田合戦)。攻め寄せてきた[[六角義賢>六角承禎]]の軍およそ2万5千を、1万1千の兵力で長政が撃退。家臣たちはこれを見て喜び、[[久政>浅井久政]]が鷹狩りに出かけた留守に長政を[[小谷城>小谷]]へ迎え、[[久政>浅井久政]]に「これより長政様を主人とする」と宣言。これを聞き、驚いた[[久政>浅井久政]]は、家臣を集めようとしたが誰も集まらず、仕方なく竹生島へ逃れた。~
~
当主となった長政は、まず[[六角氏>六角一族の屋敷]]から迎えた妻を離別。これにより[[六角義賢>六角承禎]]は永禄3年(1560)8月、[[蒲生賢秀]]などに大軍を起こさせ、[[浅井氏>浅井家]]の属城、肥田城を攻めた。が、長政はこれを敗走させる。同年10月、[[久政>浅井久政]]夫人が竹生島の[[久政>浅井久政]]を訪れ、長政との和解をすすめた結果、長政が[[久政>浅井久政]]を[[小谷]]へ迎え、別邸を構えて住まわせた。~
~
翌4年(1561)、[[六角義賢>六角承禎]]は[[美濃]]の[[斎藤義龍]]と結んで長政挟撃をはかり、一時、[[浅井氏>浅井家]]の支城、佐和山城を落城させるが、逆に長政に取り戻される。~
~
永禄6年(1563)、長政は、家来、[[安養寺三郎左衛門>安養寺氏種]]から、[[織田信長]]の命により[[不破河内守>不破光治]]が縁組の申し入れをしてきたことを聞く。またこの年は、[[六角氏>六角一族の屋敷]]に内紛が起こり、それに乗じた長政は南下をはかり、坂田、浅井、伊香、[[江北三郡>近江]]に加え、愛知、犬上、高島の[[三郡>近江]]を獲得、勢力圏に治めている。~
~
永禄10年(1567)、[[織田家]]が、[[浅井氏>浅井家]]の同盟国である[[朝倉義景]]に異心を唱えないことを条件に、[[信長>織田信長]]の妹、お市の方を娶る。~
~
永禄11年(1568)7月、[[信長>織田信長]]は兵を率いて佐和山城に入城。[[越前]][[朝倉氏>朝倉家]]を見限った[[足利義昭]]は、長政に護衛されて[[信長>織田信長]]を頼ったのだが、この時、長政は[[信長>織田信長]]の相談相手をつとめたという。さらに、[[信長>織田信長]]と長政の敵となった[[六角氏>六角一族の屋敷]]が、[[三好>三好家]]党と結んで勢力挽回をはかったため、[[信長>織田信長]]は[[六角氏>六角一族の屋敷]]の観音寺城を攻略、[[義昭>足利義昭]]を奉じて、ついに[[入京>京都]]を果たした。長政と[[信長>織田信長]]の連携を思わせる一時期である。~
~
しかし元亀元年(1570)には、早くも、[[信長>織田信長]]が[[義昭>足利義昭]]を傀儡化し、将軍の命令を盾に、4月、上洛せぬ[[朝倉義景]]への討伐を開始。[[京>京都]]から[[近江]]坂本を経て[[越前]]へ向かい、金ヶ崎城を攻略、さらに[[浅井氏>浅井家]]の領土を通って、[[朝倉氏>朝倉家]]の[[一乗谷]]へ迫ろうとした。長政は、縁組以来の約束を破った[[信長>織田信長]]に激怒し、[[信長>織田信長]]軍を背から追う形で攻撃。この折、[[朝倉義景]]の動きが鈍重であったため、[[信長>織田信長]]は辛くも危機を脱出して[[京>京都]]へ帰る。これを機に、長政と[[信長>織田信長]]は関係決裂。~
~
同年6月28日には、[[姉川]]合戦において、[[織田>織田家]]・[[徳川>徳川家]]連合軍3万4千と、[[浅井>浅井家]]・[[朝倉>朝倉家]]連合軍1万8千が激突。[[浅井>浅井家]]軍は[[朝倉>朝倉家]]軍の左翼にあって、約3倍の兵力と互角に戦い、とくに先陣、[[磯野員昌]](佐和山城主)は、[[織田>織田家]]軍十三段の構えを[[十一段>姉川十一段崩し]]まで突き破る猛攻を見せた。が、このときも[[朝倉>朝倉家]]軍の敗走を機に、退却を余儀なくされ、[[織田>織田家]]・[[徳川>徳川家]]の勝利に終った。[[織田>織田家]]軍800余、[[浅井>浅井家]]軍は1700余の戦死者を出した。~
~
7月、主力を失った[[浅井>浅井家]]の弱みに乗じて、[[信長>織田信長]]が佐和山城を攻略。しかし長政は援軍を送らず、逆に、城主、[[磯野員昌]]が[[織田>織田家]]に内通の噂ありと信じて、人質だった[[員昌>磯野員昌]]の母を殺害。翌元亀2年(1571)2月、[[員昌>磯野員昌]]は降伏、[[信長>織田信長]]は[[丹羽長秀]]を佐和山城主に据える。~
~
天正元年(1573)、最大の脅威、[[武田信玄]]の死に乗じた[[信長>織田信長]]は、[[朝倉氏>朝倉家]]を滅ぼし、8月27日[[小谷城>小谷]]を攻める。28日に京極丸まで攻め寄せられた父・[[久政>浅井久政]]は自刃。62歳。すでにお市の方と三人の娘を[[信長>織田信長]]のもとに送り、 自刃しようとしていた長政は、[[信長>織田信長]]から開城を条件に助命する、という連絡をうける。[[織田>織田家]]軍によって城内の連絡を断たれた長政は、父の死を知らず、父・[[久政>浅井久政]]の助命を条件に一度は城を出ようとする。~
~
9月1日、城外に出た長政は、父の自刃を知り、家老・[[赤尾美作守>赤尾清綱]]の宿所において自刃。29歳。介錯は木村太郎次郎。長男、万福丸は、一度は家来と逃亡するが、[[織田>織田家]]軍に捕らえられ斬首。二男、万寿丸は僧侶となり、[[近江]]長沢村、福田寺住職になる。~
~
お市の方はのちに、三人の娘とともに[[柴田勝家]]に再嫁、天正11年(1583)[[勝家>柴田勝家]]が[[秀吉>羽柴秀吉]]に敗れると、[[越前]]北ノ庄城において[[勝家>柴田勝家]]とともに自害。三人の娘は[[秀吉>羽柴秀吉]]に引き取られ、長女・茶々(藤原菊子)は[[秀吉>羽柴秀吉]]の側室となって秀頼を生む淀殿、次女・お初(藤原藤子)は[[京極高次]]夫人(のち出家、常光院)、三女・小督(従一位・藤原達子、お江、お江与、贈号・崇源院)は佐治一成室となるが、[[秀吉>羽柴秀吉]]の命で[[秀吉>羽柴秀吉]]の養子、秀勝の室となり、秀勝死後は、二代将軍・徳川秀忠正室となって、三代将軍・家光、二男忠長を生む。~
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この三代将軍・家光によって、寛永9年(1632)9月15日、浅井長政は従二位中納言を追贈される。~
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長政の領地であった[[小谷]]においては、長政の人気は根強い。長政の善政がしのばれる。~
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ちなみに…長政は容姿の点でも優れていたらしく、その容貌は端麗にして高雅、身の丈はおよそ六尺(約180cm)の美丈夫であったと言う。~
:浅井井頼|
:浅井亮親|
**その他情報 [#s47d78de]
- 夜叉一閃:高命中率的乾坤一擲(附加麻痺) -- [[台灣天下創世僧侶]] &new{2008-03-10 (月) 18:43:47};
- 命中高い 乾坤モーション 痺れアリ -- [[夜叉一閃]] &new{2008-03-19 (水) 15:36:44};
- 夜叉一閃:打齋藤義龍 1w6 -- [[taiwan]] &new{2010-10-06 (水) 18:43:32};
- 拠点戦にて夜叉一閃 痺れた60忍者武将相手に約2万のダメ -- &new{2011-03-14 (月) 17:25:33};
- 信義の塊で1が9000回復 -- &new{2011-05-20 (金) 20:23:42};
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