[[相模武将一覧]]
*&ruby(トオヤマ ツナカゲ){遠山綱景}; [#ob84d77c]

**レベル:数 [#vc7c7680]
60:7

**職業 [#wc9281c8]
侍

**合戦配置 [#x3f74484]
後詰

**戦闘開始セリフ [#jfb9d343]
なし

**構成 [#eb8f400b]
|>|>|CENTER:|||c
|~名前|~職業|~レベル|~初期付与|~使用技|
|遠山綱景|槍侍|60||[[沈黙の霧・壱]]、[[蘇生の秘薬]]、守護術|
|乱波中忍|懐剣二刀忍者|55|||
|早雲寺高僧|薙刀僧|55|反射結界|[[完全回復]]|
|伊豆衆精鋭|懐剣陰陽|55|結界||
|箱根山神官|剣巫女|55|||
|相模鍛冶|鉄砲鍛冶|55||守護術|
|箱根山山伏|錫杖薬師|55|再生|[[蘇生・壱]]|

**備考 [#xeedf400]
-撃破すると対応する四天王・後詰武将を弱体
-対応する後詰副将・後詰武将撃破で弱体

**特徴 [#ud7ba59e]

**ドロップアイテム [#a07db615]
-[[二つ引両金立物]]
-[[連歌の書]]

**列伝 [#ne7c800c]
遠山直景の第一子と伝わるが詳細は定かではない。藤九郎。甲斐守、丹波守。生年は定かではない。

遠山氏は伊勢宗瑞(北条早雲)の[[駿河]]下向に従ったとされ、このときの人物が遠山直景であり、綱景の父とされる人物であるが、これは年齢的に考えて無理がありすぎるともいわれる。直景が死去した年の最有力は1533年であり、早雲とは2世代近くも年がずれるからである。~
実際のところは、16世紀の頭に[[京>京都]]から伝を頼って落ちてきたともされている。直景の本拠は[[美濃]]明知城であり、なぜ明知城を棄てて[[相模]]に来たかは定かではない。今作品に[[美濃武将>美濃武将一覧]]として登場している[[遠山景任]](少なくとも直景下向後の明知遠山氏では彼が本流)とは親戚であり、その同族とされる[[遠山友忠]]とは遠縁にあたる。この一族は[[明智光秀]](美濃遠山氏とは近しい血筋とされる)とのかかわりや[[南光坊天海>慈眼大師天海]](美濃遠山氏出自説がある)とのかかわりも指摘される広い意味で怪しい一族でもある。~
となると、綱景の生年も(娘の婚期から考えて)1510年前後であると予想される。~

綱景は江戸衆筆頭に列せられ、相模西郡松田や曽比郷、相模中郡金目郷などに約963貫を知行していた。~
また、綱の字は北条氏綱からの一字拝領である。娘が[[北条氏康]]の養女(法性院、[[太田康資]]に嫁ぐ)となるなど、かなりの重臣に位置する。~
なお、1533年に死去した父の後を継ぎ江戸城代となっている(江戸城代格は3人いたが、当時の資料では、彼が江戸城代であるとしているものがある。)。~
また、1544年に連歌師の宗牧を呼び、連歌の会を催したことが記録に残っている。当時関東といえば田舎であり、いわゆる文化の中心地である京とはかけ離れた土地であった。そのようなところで連歌の会を開いたことは彼の教養を裏付けるとともに、北条家中での地位も明らかにしている。~

1564年初頭、太田康資の離反により第二次国府台合戦が勃発、綱景は先鋒を務めたが、息子の隼人佐とともに討ち死に。以後彼の後は出家していた三男の政景が継いだという。~
彼は江戸城代として入っていたが、同じ位にあった太田康資の寝返りを察知できなかったのに負い目を感じて、同じく負い目を感じていた[[富永直勝]]とともに[[北条綱成]]が率いる本隊よりもかなり先行して江戸川を渡河、そのため里見氏の反撃を受けたという。間接的にではあるが自身の親類である康資…娘の夫が裏切ったとなれば、彼の面子や面目はつぶされたであろうから、功をあせったということもあるのかもしれない。~
これにより、北条方が当初予定していた、里見と反目していた千葉氏に後ろを付かせる挟撃策は破綻してしまう(ただし、これにより主力を温存できた北条方は、撤退を装って里見氏を油断させるとともに、この両名を討ち取った功で酒を振舞っていた里見陣を奇襲。大勝利を収めた)。~

なお、遠山の金さんとして有名な遠山景元は、彼の子孫であるという説がある(ただし、本流である美濃遠山氏の出自という説もある)。

**その他情報 [#z71e5351]

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